- 光松八幡[こうしょうはちまん]神社の市指定文化財
平成2年(1990)5月29日指定 - 光松八幡神社は、金沢城の金谷御殿[かなやごてん](金沢市尾山神社敷地)にあった八幡宮に由来し、御神体や縁起[えんぎ]、本殿などが13代藩主であった前田斉泰[なりやす]によって、明治4年(1871)に徳用[とくもと]村へ譲り与えたものです。その際にやりとりした文書や斉泰自筆の書画類など24点が市の文化財に指定されています。
徳用の神社はもともと白山社でしたが、御神体がありませんでした。ある日、徳用村の肝煎[きもいり]であった仕平の夢に金沢城内の神様が現れ「徳用村へ行きたい」とのお告げがあり、打首[うちくび]覚悟で金沢の金谷御殿へ行き神様の譲り受けの願いを御用方にしたところ、殿様(斉泰)も同じ夢を御覧になった、という話が伝わっています。
村民らの熱心な懇願によって、これまで旧藩主が祀ってきた八幡宮の御神体だけでなく縁起をはじめ建物や鳥居まで一農村に譲与されたことは、当時の状況からみて驚くべき出来事でした。はじめは八幡社とし、明治7年(1874)に鉾杉[ほこすぎ]八幡神社、明治22年(1889)から光松八幡神社と名称を改めました。
金谷御殿の八幡宮は、武州豊島郡[ぶしゅうとしまぐん]牛込郷戸塚村[うしごめごうとつかむら]の穴[あな]八幡宮(現東京都新宿区西早稲田の穴八幡神社)を城内の鎮守として勧請[かんじょう]したもので、穴八幡宮は神杉[かむすぎ]から出た光り物が宮の後ろに飛び落ちたなど不思議な出来事を伝える牛込郷の総鎮守として、歴代の将軍が敬った著名な神社です。
- 村御印[むらごいん]
- 加賀藩3代藩主前田利常[としつね]は、隠居中に農政上の大改革をはじめとする改作仕法[かいさくしほう]を行いました。これまで各村の石高[こくだか](米などの生産力の単位・草高[くさだか])や免[めん](税率)は、検地[けんち]によって定められていましたが、この法令によって石高や免は検地を行わないで村が自主的に応じることに改められました。村御印は、各村の納税内容について細かく記した文書で、承応[じょうおう]3年(1654)、明暦[めいれき]元年(1655)、明暦2年(1656)、寛文[かんぶん]10年(1670)に交付されていますが、古いものは回収され現在は寛文期のものが残っています。村の最重要文書として大切に保管されていることが多く、市内では8点が確認されています。
Shi-shitei bunkazai : Bunkazai no yurai to rekishi