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- 種類
- 記念物 史跡
- 名称
- 末松廃寺跡
- よみ
- すえまつはいじあと
- 員数
- 23,071.69m2
- 所有者または管理者
- 野々市市
- 所在地
- 末松2-247〜252
- 指定年月日
- 昭和14. 9. 7
末松廃寺跡は江戸時代から知られており、『石川訪古游記[いしかわほうこゆうき]』には水田中の巨大な石(唐戸石[からといし])を金沢の東本願寺別院へ移そうとしたが、地中に深く埋まって動かせなかったことが記されています。唐戸石は塔心礎で、長径2.24mの巨大な石に、直径58?のほぞ穴が穿たれています。
昭和12年(1937)には地元の高村誠孝[たかむらせいこう]氏発案の発掘調査によって古代の寺院跡であることが初めて確認されて、昭和14年(1939)の国史跡指定に至りました。また、昭和36年(1961)、高村氏が寺城内で和同開珎[わどうかいちん]銀銭(市指定文化財)を発見したことがきっかけとなり、昭和41・42年(1966・67)には文化庁による本格的な発掘調査が行なわれました。
この調査によって、末松廃寺は金堂を西、塔を東に並立させた、法起寺[ほっきじ]式の伽藍[がらん]配置の寺院であったことが判明しました。金堂の規模は東西19.8m、南北18.4m、塔の一辺の長さは10.8mです。
建立の年代は白鳳[はくほう]時代の660〜670年頃とされる北陸最古級の寺院であり、創建時の金堂、塔は8世紀初頭頃までに倒壊し、金堂は8世紀後半に規模を縮小して再建されましたが、塔は再建されていないことが判明しました。
また、建立した豪族については当時北加賀を支配した「道君[みちのきみ]」一族であるとする説が有力ですが、出土した瓦が、能美市の湯屋窯跡[ゆのやかまあと]で焼かれて運ばれたものであることや、加賀南部・能美地域産の須恵器が多くみられること、塔心礎が手取川で産出される安山岩を加工したものであることなどから、財部[たからべ]氏など南加賀の豪族も寺院の建立に大きく関係しているものと考えられています。
昭和43年(1968)から3年をかけて遺構の一部を復元する整備事業が行なわれ、現在は史跡公園として親しまれています。なお、平成26年(2014)から史跡公園の再整備に伴う発掘調査を実施しており、平成30年(2018)には瓦塔の一部である『女子像が線刻された土製品』が発見されました。瓦塔に高貴な女性の絵を描いた例は他になく、全国初の出土例です。