富樫氏資料 - 古文書

  
額用家禁制(ぬかもちいえ きんぜい)
延文[えんぶん]四年(一三五九)六月 白山市 宮永八幡神社

加賀守護代額用家が、豊勝宮[ほうしょうのみや](現白山市宮永八幡神社)に対する軍勢・甲乙人[こうおつにん]等の狼藉[ろうぜき]を禁じた文書です。
守護代の額用家は富樫一族で、京都にいて足利尊氏に近侍する高家に代わって領国を守り、高家の没後は氏春を補佐しました。
(甲乙人:武士以外の一般庶民を意味する呼び方)
富樫政親寄進状(とがしまさちか きしんじょう)
文明[ぶんめい]六年(一四七四)四月十五日 白山市 宮永八幡神社

富樫政親が合戦に勝利したので、足掛を一つ豊勝宮(現白山市宮永八幡神社)に奉納しました。この時の加賀守護は、政親と敵対する弟の幸千代[こうちよ]であり、政親は幸千代方と戦いを続けていたものと思われます。
加賀守護富樫政親書下(かがしゅご とがしまさちか かきくだし)

文明[ぶんめい]六年(一四七四)十二月 白山市 北村家

富樫政親[まさちか]は、槻橋兵庫允[つきはしひょうごじょう]が知行する、能美郡の上土室[かみつちむろ]と河北郡英田[あがた]荘の指江[さっせ]村等を安堵[あんど]した文書です。政親が加賀守護に復帰し政権を取り戻したことを示しています。
富樫泰高屋敷等寄進状(とがしやすたか やしきなど きしんじょう)

明応[めいおう]八年(一四九九)九月晦日 金沢市 善性寺

富樫泰高が本荘(石川郡富樫)四十万村 [ほんじょう しじまむら]にあった、大仙寺[だいせんじ]の屋敷・山林を、熱心な本願寺門徒であった法慶道場[ほうきょうどうじょう](のちの善性寺)に寄進しました。
この寄進は、富樫政親を滅ぼした長享の一揆[ちょうきょうのいっき(1488)]後、守護に擁立[ようりつ]してくれた本願寺勢力との協調関係をより確かにするためのもので、大仙寺は富樫成春[しげはる](政親の父)の菩提寺でした。その一方で袖判[そではん](花押[かおう]を文書の右端に据える)という尊大[そんだい]な書式をもって臨んでいます。
加賀守護富樫稙泰書下(かがしゅご とがしたねやす かきくだし)

永正[えいしょう]元年(一五〇四)三月五日 金沢市 善性寺

富樫泰高[やすたか]の後に家督[かとく]を継いだ孫の富樫稙泰が、明応[めいおう]8年(1499)9月に泰高が寄進した本荘(石川郡富樫)四十万村大仙寺[ほんじょう しじまむら だいせんじ]の屋敷と山林の所有者は善性寺であることを安堵[あんど](承認)した文書です。
稙泰は、享禄[きょうろく]4年(1531)におきた加賀の主権をめぐる一向宗内の争いに敗れて越前に逃れ、野々市に帰ることができないまま、天文[てんぶん]4年(1535)に亡くなったとされています。
富樫稙泰奉公人奉書(とがしたねやす ほうこうにん ほうしょ)

永正[えいしょう]二年(一五〇五)五月十五日 金沢市 善性寺

加賀守護富樫稙泰が前年に安堵[あんど](承認)した大仙寺[だいせんじ]の屋敷・山林について、奉公人の高次[たかつぎ]が、法慶入道[ほうきょうにゅうどう]の所有を更に証明した文書です。
富樫泰俊判物(とがしやすとし はんもつ)

天文[てんぶん]二年(一五三三)六月三日 金沢市 善性寺

富樫本荘[ほんじょう]の四十万村散田[しじまむら さんでん]の百姓に、年貢を代官に直納[じきのう]することを命じた文書です。袖判[そではん](花押[かおう]を文書の右端に据える)は富樫泰俊と推定されています。
富樫晴泰判物(とがしはるやす はんもつ)

弘治[こうじ]三年(一五五七)十月二十三日 金沢市 善性寺

弘治[こうじ]3年(1557)富樫晴泰[はるやす](晴時[はるとき]・晴貞[はるさだ])が四十万村[しじまむら]の松蓮寺[しょうれんじ](富樫満春[みつはる]の菩提寺[ぼだいじ])分の土地を善性寺教勝[ぜんしょうじ きょうしょう]に知行地[ちぎょうち](支配地)として与えるという文書です。この土地は本寺(本山)である松林院に知行を認めていましたが、松林院が富樫氏に対して数十年間にわたり礼儀[れいぎ]を欠いていたので、これをとりあげて教勝に与えました。
富樫晴時書状(とがしはるとき しょじょう)

(年末詳)五月五日 金沢市 善性寺

富樫晴時[はるとき](晴泰[はるやす]・晴貞[はるさだ])が善性寺教勝[ぜんしょうじ きょうしょう]の子(小法師殿)に、端午の節句の甲を贈った文書です。 文書年は未詳ですが、弘治[こうじ]3年(1557)の富樫晴時書状[とがしはるとき しょじょう]と花押[かおう]が同一であることから、晴泰と晴時は同一人物とみられます。