とがしやかたあと(しゅごしょ)

富樫館跡(守護所)


名称
富樫館跡(守護所)
よみ
とがしやかたあと(しゅごしょ)
所在地
野々市市住吉町3

建武[けんむ]2年(1335)一族で初めて加賀の守護となった富樫高家[たかいえ]の館で、政務をとった守護所[しゅごしょ]でもありました。

富樫政親[まさちか]が、一向一揆[いっこういっき]に敗れた長享[ちょうきょう]2年(1488)の後も、富樫泰高[やすたか]、稙泰[たねやす]、晴貞[はるさだ]と続きましたが、元亀[げんき]元年(1570)に晴貞が一向一揆と争いを始めた織田信長[おだのぶなが]に味方したため、一揆勢に攻められ、館は廃絶したものと考えられます。

館は、防御[ぼうぎょ]の土居[どい]が描かれた江戸時代の絵図や、付近の「ジョウカク[城郭]」・「ナガドイ[長土居]」などの字名[あざ]から、住吉町地内にあると想定されていました。

明治時代までに土居は崩されて水田になっていましたが、平成6年(1994)の発掘調査で館の堀の一部が確認されました。堀は、幅6〜7m、深さ2.5mのV字形に掘られ、中から14〜16世紀に使用した陶磁器[とうじき]や鏡が出土しました。館全体の大きさは不明ですが、100〜120m四方はあったと推定されています。

この館を中心に、周辺には重臣[じゅうしん]の屋敷、庶民による「野市[ののいち]」の町が形成されて大いに賑[にぎ]わっていたものと思われます。


写真2: 安政[あんせい]5年(1858)に森田平次が測量した絵図には、館を防御[ぼうぎょ]した土居[どい]が記録されており、土居は東西に60.5間(約110m)、南北には2筋みられ、東側は67間(約122m)、西側が48.9間(約89m)の長さで、幅は最大4.7間(約8.5m)とあります。

写真3: 堀は、幅6〜7m、深さ2.5mのV字形に掘られ、中から14〜16世紀に使用した陶磁器[とうじき]や鏡が出土しました。