大乗寺は、はじめ富樫家尚[いえひさ]が押野荘に澄海[ちょうかい]を住持[じゅうじ]として現在の野々市市本町1丁目あたり建てた密教[みっきょう]寺院であったが、家尚と澄海は永平寺から徹通義介[てっつうぎかい]を招き、永仁[えいにん]元年(1293)に加賀国最初の禅寺として開かれました。 義介は大乗寺住持を6年間勤め、1298年(永仁6)門弟の瑩山紹瑾[けいざんじょうきん]に住持を譲って隠居した後、延慶[えんきょう]2年(1309)に亡くなり、太平寺地内で荼毘[だび]にふされています。 2代住持の紹瑾は、明峰素哲[めいほうそてつ]・無涯智洪[むがいちこう]などの有力な門弟を育てましたが、延慶[えんきょう]2年(1309)に永光寺[ようこうじ](羽咋市)を開いて本拠を移したため、親交のあった臨済宗系の恭翁運良[きょうおううんりょう]に大乗寺を託しました。運良は、富樫氏の支持もあって15 〜 20年間ほど住持となり、多くの学僧が集まったといわれています。 次に住持についた富樫氏出身の明峰素哲[めいほうそてつ]は、貞和[じょうわ]2年(1346)押野荘の地頭[じとう]富樫家善[いえよし]から田地5町と敷地の寄進[きしん]を受けるなど、富樫氏との密接な関係をもつと同時に、大乗寺の基盤強化を図りました。 長享[ちょうきょう]2年(1488)の加賀一向一揆を描いた『官知論[かんちろん]』には、高尾城[たかおじょう]の富樫政親[まさちか]を攻める一揆方の富樫泰高[やすたか]が「野々市之大乗寺」に布陣したと記しています。その後、天正[てんしょう]8年(1580)に織田信長軍が一向一揆勢を攻めたとき、兵火によって寺院は炎上したともいわれ、野々市での大乗寺の記録はわからなくなります。 江戸時代には加賀藩前田氏の庇護[ひご]のもと、金沢城下縁辺の木新保[きのしんぼ]に寺地を得ましたが、後に家老本多[ほんだ]家の菩提寺として金沢市本多町に移り、現在地の金沢市長坂[ながさか]町に移転したのは元禄[げんろく]10年(1697)です。
大乗寺は、はじめ富樫家尚[いえひさ]が押野荘に澄海[ちょうかい]を住持[じゅうじ]として現在の野々市市本町1丁目あたり建てた密教[みっきょう]寺院であったが、家尚と澄海は永平寺から徹通義介[てっつうぎかい]を招き、永仁[えいにん]元年(1293)に加賀国最初の禅寺として開かれました。
義介は大乗寺住持を6年間勤め、1298年(永仁6)門弟の瑩山紹瑾[けいざんじょうきん]に住持を譲って隠居した後、延慶[えんきょう]2年(1309)に亡くなり、太平寺地内で荼毘[だび]にふされています。
2代住持の紹瑾は、明峰素哲[めいほうそてつ]・無涯智洪[むがいちこう]などの有力な門弟を育てましたが、延慶[えんきょう]2年(1309)に永光寺[ようこうじ](羽咋市)を開いて本拠を移したため、親交のあった臨済宗系の恭翁運良[きょうおううんりょう]に大乗寺を託しました。運良は、富樫氏の支持もあって15 〜 20年間ほど住持となり、多くの学僧が集まったといわれています。
次に住持についた富樫氏出身の明峰素哲[めいほうそてつ]は、貞和[じょうわ]2年(1346)押野荘の地頭[じとう]富樫家善[いえよし]から田地5町と敷地の寄進[きしん]を受けるなど、富樫氏との密接な関係をもつと同時に、大乗寺の基盤強化を図りました。
長享[ちょうきょう]2年(1488)の加賀一向一揆を描いた『官知論[かんちろん]』には、高尾城[たかおじょう]の富樫政親[まさちか]を攻める一揆方の富樫泰高[やすたか]が「野々市之大乗寺」に布陣したと記しています。その後、天正[てんしょう]8年(1580)に織田信長軍が一向一揆勢を攻めたとき、兵火によって寺院は炎上したともいわれ、野々市での大乗寺の記録はわからなくなります。
江戸時代には加賀藩前田氏の庇護[ひご]のもと、金沢城下縁辺の木新保[きのしんぼ]に寺地を得ましたが、後に家老本多[ほんだ]家の菩提寺として金沢市本多町に移り、現在地の金沢市長坂[ながさか]町に移転したのは元禄[げんろく]10年(1697)です。