押野館跡は富樫家善[いえよし]の館で館野小学校の南東一帯に位置しています。家善は建武[けんむ]2年(1335)に加賀守護[かがしゅご]になった富樫高家の弟にあたり、「押野殿[おしのどの]」と呼ばれていました。 文化[ぶんか]8年(1811)頃、加賀藩士の湯浅玄斎[ゆあさげんさい]が『押野館跡図』の絵図を描いています。絵図によって館は、東面49間(約88m)、南面56間(約102m)、西面87間(約158m)、北面27間(約49m)、東北面45間(約82m)の大きさであったことや、周囲に残っている土居[どい]も表記され、当時の館跡の状況がうかがえます。 近年の発掘調査では、館の周りを囲む大きな堀や建物、井戸の跡などを発見し、当時の陶磁器[とうじき]や鉄製の鋤先[すきさき]などが出土しました。
押野館跡は富樫家善[いえよし]の館で館野小学校の南東一帯に位置しています。家善は建武[けんむ]2年(1335)に加賀守護[かがしゅご]になった富樫高家の弟にあたり、「押野殿[おしのどの]」と呼ばれていました。
文化[ぶんか]8年(1811)頃、加賀藩士の湯浅玄斎[ゆあさげんさい]が『押野館跡図』の絵図を描いています。絵図によって館は、東面49間(約88m)、南面56間(約102m)、西面87間(約158m)、北面27間(約49m)、東北面45間(約82m)の大きさであったことや、周囲に残っている土居[どい]も表記され、当時の館跡の状況がうかがえます。
近年の発掘調査では、館の周りを囲む大きな堀や建物、井戸の跡などを発見し、当時の陶磁器[とうじき]や鉄製の鋤先[すきさき]などが出土しました。