ごとうけあと

後藤家跡


名称
後藤家跡
よみ
ごとうけあと
所在地
押野1丁目

後藤家は、富樫泰俊[やすとし]の三男宗俊[むねとし]を先祖としています。
泰俊は、父の稙泰が享禄[きょうろく]4年(1531)におきた加賀の主権をめぐる一向宗[いっこうしゅう]内の争い(享禄の錯乱[きょうろくのさくらん])に敗れたことから、父と越前に逃れ、金津城主[かなづじょうしゅ]杉江[すぎえ]氏の館に身を寄せていました。しかし、天正[てんしょう]2年(1574)、越前の内紛をきっかけに攻め込んできた加賀一向一揆[いっこういっき]勢により溝江館で自害しました。
宗俊は、この戦いからひそかに逃れて加賀に戻り、後藤弥右衛門[ごとうやえもん]と名前を改めて押野村字清水に居住しました。天正9年(1581)には、一向一揆との戦いの戦功によって、佐久間盛政[さくまもりまさ]から300石分の領地が与えられました。その子藤右衛門[とうえもん]は、十村として押野村とその周辺10か村ほどの支配を命じられ、子孫は幕末に至るまで、代々この役を務めました。3代目太兵衛は明暦[めいれき]元年〜万治[まんじ]元年(1655〜58)にかけて、現金沢市の泉野[いずみの]を開墾して長坂新村を成立し、寛文[かんぶん]11年(1671)には、長坂用水[ながさかようすい]を掘削して灌漑[かんがい]の便を図るなど、農政に尽くした業績が知られています。
後藤家は、高皇産霊[たかみむすび]神社の隣にありましたがが、現在は、小公園として利用されており、土蔵だけが残っています。