富樫氏の居城であった高尾城は、野々市の富樫館から東へ約2kmに位置しており、守護富樫政親[まさちか]が加賀一向一揆[かがいっこういっき]に滅ばされた城です。 長享[ちょうきょう]元年(1487)9月、政親は将軍足利義尚[あしかがよしひさ]の近江六角氏[ろっかくし]討伐に従い出陣し、兵粮米[ひょうろうまい]や軍費[ぐんぴ]を求めたことから加賀において反政親の気運が高まりました。驚いた政親は12月に帰国して高尾城に入りましたが、長享[ちょうきょう]2年(1488)5月、大規模な一向一揆がおこり高尾城に立て籠もる政親は、大叔父[おおおじ]にあたる富樫泰高[やすたか]を総大将とする強大な一揆勢によって包囲されました。6月7日未明からの一揆方の総攻撃によって城方は散々に打ち負け脱出者が相次ぎ、政親は抗戦も及ばず9日に自害し高尾城は陥落しました。 これ以後、泰高が守護になりますが、実権は一向一揆勢がもち加賀を治めることになりました。 泰高は「百姓取立ノ富樫ニテ候」と評され、やがて一向一揆がその存在を大きくしていくと、「百姓等ノウテ(腕)ツヨ(強)ク成テ、近世ハ百姓ノ持タル国ノヤウニ成行サフラフ事ニテ候」といわれる時代をむかえます。
写真1: 高尾城は、昭和45年(1970)の北陸自動車道建設工事の土砂採取によって、城の大部分が破壊されたと思われていましたが、金沢市教育委員会が昭和59年(1984)に実施した分布調査では、広大な区域に城郭遺構が発見され、規模の大きな中世の城郭であることが判明しました。
写真2: 高尾城跡から眺める野々市一揆勢や野々市大乗寺に陣を構えた富樫泰高などの動きが良く見えたものと思われます。
富樫氏の居城であった高尾城は、野々市の富樫館から東へ約2kmに位置しており、守護富樫政親[まさちか]が加賀一向一揆[かがいっこういっき]に滅ばされた城です。
長享[ちょうきょう]元年(1487)9月、政親は将軍足利義尚[あしかがよしひさ]の近江六角氏[ろっかくし]討伐に従い出陣し、兵粮米[ひょうろうまい]や軍費[ぐんぴ]を求めたことから加賀において反政親の気運が高まりました。驚いた政親は12月に帰国して高尾城に入りましたが、長享[ちょうきょう]2年(1488)5月、大規模な一向一揆がおこり高尾城に立て籠もる政親は、大叔父[おおおじ]にあたる富樫泰高[やすたか]を総大将とする強大な一揆勢によって包囲されました。6月7日未明からの一揆方の総攻撃によって城方は散々に打ち負け脱出者が相次ぎ、政親は抗戦も及ばず9日に自害し高尾城は陥落しました。
これ以後、泰高が守護になりますが、実権は一向一揆勢がもち加賀を治めることになりました。
泰高は「百姓取立ノ富樫ニテ候」と評され、やがて一向一揆がその存在を大きくしていくと、「百姓等ノウテ(腕)ツヨ(強)ク成テ、近世ハ百姓ノ持タル国ノヤウニ成行サフラフ事ニテ候」といわれる時代をむかえます。
写真1: 高尾城は、昭和45年(1970)の北陸自動車道建設工事の土砂採取によって、城の大部分が破壊されたと思われていましたが、金沢市教育委員会が昭和59年(1984)に実施した分布調査では、広大な区域に城郭遺構が発見され、規模の大きな中世の城郭であることが判明しました。
写真2: 高尾城跡から眺める野々市一揆勢や野々市大乗寺に陣を構えた富樫泰高などの動きが良く見えたものと思われます。